日本の心が紡いできた比類なき「美」。「日本美術全集 全20巻」。今、日本に存在する「最高の美」のすべてがここに。
第17回配本 (19)拡張する戦後美術(戦後〜1995)
責任編集/ | 椹木野衣(多摩美術大学教授) |
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定価 | 本体15,000円+税 |
ISBN | 9784096011195 |
判型・仕組 | B4判/312頁 カラー図版口絵144ページ・カラー図版両観音16ページ モノクロ解説ページ152ページ/上製・函入り/月報付き |
もくじ
- はじめに 椹木野衣(多摩美術大学教授)
- 論考/よみがえる「戦後美術」
──しかしこの車はもと来た方向へ走っているではないか 椹木野衣(多摩美術大学教授) - 「日本画」にとっての戦後 山下裕二(明治学院大学教授)
- コラム/マンガと美術の「あいだ」 伊藤 剛(東京工芸大学准教授)
- コラム/日本戦後写真小史 土屋誠一(沖縄県立芸術大学准教授)
- コラム/戦後デザインの実体化
──世界デザイン会議から東京オリンピック、大阪万国博覧会へ 暮沢剛巳(東京工科大学准教授) - コラム/肉体絵画と肉体表現──パフォーマンス前史のための素描 福住 廉(美術評論家)
概要
日本美術全集配本17回に当たる『拡張する戦後美術』では、1945(昭和20)年から1995(平成7)年の間に制作・発表された美術、200点強を取り上げます。責任編集を務めるのは、近年、美術評論/批評家としてリーダー的役割を担う椹木野衣氏。「現代美術や、印刷および複製技術の進展と普及によって飛躍的に流布した写真、デザインに加え、純粋な美術としてとらえられてこなかったマンガや特撮美術も、わが国ならではの戦後美術を代表する表現として、進んで取り上げた」(「はじめに」より抜粋)と氏がいうように、おそらく従来の美術全集におけるラインナップ、また私たちがこれまで抱いていた“戦後美術”のイメージから大きく冒険を果たした構成になりました。
たとえば、いまや現代美術の代名詞ともいえる村上隆の『シーブリーズ』『タイムボカン』、本巻の象徴的作家である岡本太郎の『森の掟』『重工業』『明日の神話』『太陽の塔』、そして2014年から15年に大回顧展が全国を巡回し話題を呼んだ成田亨による怪獣デザイン画。とりわけ新鮮な驚きに見舞われるのは、第三章にマンガの名作たちが次々と登場すること。手塚治虫・酒井七馬による『新寳島』、水木しげる『墓場鬼太郎』、白土三平『カムイ伝』、つげ義春『ねじ式』、藤子・F・不二雄『ドラえもん』、ちばてつや・高森朝雄『あしたのジョー』、赤塚不二夫『天才バカボン』、永井豪『デビルマン』、大友克洋『AKIRA』、宮崎駿『風の谷のナウシカ』などの原画や初版出版物をカラーページで取り上げています。もちろん、少女マンガも忘れてはいません。源流をつくった中原淳一、内藤ルネ、高橋真琴の作品は当然として、マンガ史に燦然と輝く大ヒット作『ベルサイユのばら』も!! おそらく40代以上の世代なら興奮を抑えられない構成になっているはずです。
また、「雑誌の表紙」が3点、登場するのもこの時代ならではでしょう。花森安治『暮しの手帖』は、題字、イラスト、レイアウトをすべて編集長である花森自身が手がけていました。『あしたのジョー』『巨人の星』『アシュラ』などを連載していた頃の『週刊少年マガジン』の表紙構成を、横尾忠則が行っていたことを知っていましたか? その横尾忠則も参加していた雑誌『終末から』の表紙絵を描いていた味戸ケイコの存在を憶えている人も多いでしょう。
そして、近年、椹木氏の研究テーマである「アウトサイダー・アート」からは、貼絵の山下清、京都「大本」二代教祖のひとりである出口王仁三郎、郵便局長にして火山学者・昭和新山の個人所有者である三松正夫、驚異の記憶力で約600点の炭坑記録画を残した山本作兵衛、奄美大島の茅屋で発表するあてのない絵を描きつづけた田中一村などが登場します。
もちろん、戦前から旺盛な活動を続け、戦後も生き延び、描きつづけた日本画家もいます。横山操、東山魁夷、杉山寧、加山又造、平山郁夫・・・・、彼らは拡張する戦後の美術界でどのようなスタンスを取り、何を描いたのか。数ある代表作のなかから、本巻ではどの作品をイチオシとして取り上げたのかも見所です。
(編集担当・竹下亜紀)
本巻の付録「月報」の連載『その時、西洋では』の執筆者/宮下規久朗氏は、冒頭でこのように書いています。
〈本巻には、戦後の日本美術が取り上げられている。まだ十分に歴史化されたとはいえないこの時代を一巻に編集するには、ひとつの強力な価値観ないし統一された歴史的な視点が必要となる〉
ここで宮下氏のいうところの〈ひとつの強力な価値観ないし統一された歴史的な視点〉が、責任編集者である椹木野衣氏そのものでした。椹木氏に責任編集を依頼した時点で、「ふつう」の、「あたりまえ」の、従来の戦後美術観をなぞる予定調和な編集になるわけがないことは明らかです。しかも、椹木氏からカラー図版掲載リスト第一案を提出していただいたのが2012年7月。前年の東日本大震災を経て約1年後です。椹木氏のなかで、日本列島=災害列島であり、災害史と美術史のあいだには大きな連環があるとの確信が育ち熟していた頃でした。
図版の数は、このときから80点ほど増えましたが、第一案はほぼ生かされるかたちで本巻は成り立っています。
200点強の掲載作品の中から、個人的に思い入れの深い作品を3点取り上げます。
まず、三松正夫『昭和新山西面火焔孔(珊瑚岩)』(1946年)。この作品は、北海道壮瞥町で生まれ育ったアマチュア火山学者三松正夫が、噴火する昭和新山を描いたものです。
筆者は、本巻に掲載するにあたり、今年2月、椹木氏とともに本作品を所蔵する三松正夫記念館を訪れる機会に恵まれました。30分もあればぐるりと一巡できる小さな館内には、正夫が描いた作品をはじめ、昭和新山の写真や観測記録、模型などが所狭しと展示されています。なんと、ここには過去に手塚治虫も訪れており、正夫を研究した手塚は1979年に正夫の半生を作品『火の山』として発表していることを初めて知りました。
この時の取材で印象深かったのは、記念館のお隣にある昭和新山を、何度も何度もじっと見つめる椹木氏の姿です。晴れていたとはいえ、2月の北海道は5分も屋外にいられない寒さ。しかし椹木氏は、魅入られたように山を眺めているのです。そういえば正夫は昭和新山をいとおしむあまり「わが子」と呼び、所有後は雅号も「愛山(あいざん)」としたとか。いま、正夫の志を継ぎ記念館の館長を務めていらっしゃる三松三朗さんと語り合う様子からは、美術批評の枠を超え、三松正夫というひとりの特異な人間への敬愛を強く感じました。
雪の中にぽつんと立っている、一本の柱。一部がえぐり取られ、そこには無数の鑿跡が見える・・・・。
不思議な作品が本巻に掲載されています。札幌芸術の森美術館の屋外に展示されている、砂澤ビッキ『四つの風』(1986年)です。え、これが美術? しかも四つじゃなくてひとつでは?? と思ってしまってもおかしくはありません。もとは、四本の柱が等間隔ですっくと立っていました。しかし〈微生物や蟻に蝕まれ〉〈キツツキに穴をあけられて〉(図版解説より引用)、三本は倒壊し、現在は一本しか立っていません。掲載にあたり、椹木氏と編集部は、制作当初の姿の写真を使用すべきか、現在の姿を写真におさめ掲載すべきか、迷いました。そして、実際に現地に足を運び、椹木氏の眼で現在の姿を見てもらい、後者を選びました。現在の一本柱の姿に、作者ビッキが制作当初に言っていた「生きているものが衰退し、崩壊していくのは至極自然である」「自然は、ここに立った作品に、風雪という名の鑿を加えていくはずである」を実感したからでした。
3点目。糸井貫二『殺すな』(1970年)。法衣のようなものを着た糸井氏が、自筆の「殺すな」を掲げて歩いている写真です。この行為は、〈ベ平連が、1967(昭和42)年4月3日の『ワシントン・ポスト』紙に反戦意見広告を掲載したが、そこには岡本太郎による「殺すな」という自筆の文字が寄せられていた。これに大いに触発〉された糸井が自邸を訪問した客に向けて行なった〈おもてなしのパフォーマンス〉です(図版解説より引用)。もちろん、このパフォーマンスは〈単に反近代的な身体表現ではないし、あまつさえ反権力や反戦を声高に主張するメッセージアートでもない〉のですが、B4判に引き伸ばしたこの写真校正紙を何度も何度も目にするたび、これを2015年夏発売の本巻に載せることになったのは、偶然ではないという思いに駆られるのです。
本巻の編集では、編集委員のおひとりである山下裕二氏にも多大な助言をいただきました。椹木氏と山下氏の丁丁発止とした意見のやり取り、コラム・図版解説を執筆してくださったかたからの意見、提案、作品への思いなどを受け取る体験は、私にとってじつに美術的な出来事でした。
美術観賞とは「見る」行為を通して単純に楽しんだり驚いたり心を振るわせたりするものですが(この日本美術全集全20巻もその感動を読者に提供すべくつくられていますが)、椹木氏をはじめ、山下氏、そのほかの19名の執筆者が紡ぐ美術を中心とした物語を「読む」ことでも、人間そのもの、昭和〜平成史そのものに肉薄していく可能性に満ちた一冊となっています。
(編集担当・竹下亜紀)