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2018.7.10

【第1回】池井戸潤の大人気シリーズ、待望の最新刊『下町ロケット ゴースト』第1章[1]を無料公開中!

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【第1回】池井戸潤の大人気シリーズ、待望の最新刊『下町ロケット  ゴースト』第1章[1]を無料公開中!

この夏、最注目小説の第1章を特別連載。シリーズ累計250万部突破の大人気シリーズに、待望の最新刊が登場! 大田区の町工場・佃製作所にまたしても絶体絶命の危機が訪れる。そんな中、社長の佃航平は、ある部品の開発を思いつくのだが……。宇宙(そら)から大地へ――いま、新たな戦いの幕が上がる!

第1章 ものづくりの神様[第1回]

 東京都大田区にある佃製作所は、東急池上線の長原駅にほど近い住宅地の中に、幾分老朽化した本社屋を構えていた。

 従業員は宇都宮市にある工場勤務の派遣社員やパートを含めれば全部で三百人近くになるが、この本社にいるのは、経理と営業のほか、研究開発部門の技術者を含めた五十人ほどだ。

 今年五十四歳になる社長の佃航平は、十数年前、先代社長であった父親の急死にともなって、それまで勤務していた宇宙科学開発機構での職を辞して家業に戻ってきた。最先端のロケットエンジンの技術者から、当時はまだ売上数十億円に過ぎなかった町工場の社長へと転身した変わり種である。

 佃製作所の大口取引先のひとつ、ヤマタニから「折り入って話がある」、と呼び出しを受けたのは、梅雨明けの待たれる六月末のことであった。

 「お忙しいところ、来てもらって申し訳ないね、佃さん」

 応接室で対面した同社調達部長の蔵田慎二の表情は、いつになく硬かった。「どうですか、最近。御社の業績は」

 「お陰様で、どうにかやっております」

 いつも単刀直入に要件を切り出してくる蔵田のことだ、この日もさっさと本題に入るのかと思いきや、歯切れも悪く、用向きを切り出しあぐねているようにも見える。そもそも蔵田は、佃製作所の業績など気にするような男ではない。

 「先日来、お話をいただいている新型エンジンも、ようやく試作が完了しまして、近日中にお見せできるかと思います。従来製品と比べ五パーセント近く低燃費、しかも高出力を実現する予定です。期待してください」

 「でも、その分、高くなるんだよね」

 蔵田との会話の七割は、コストの話で占められるのが常だ。

 「価格についてはおいおい」

 佃は苦笑いを浮かべた。「まだテストを終えたばかりですから」

 にこりともしないで聞き流した蔵田から、そのとき短い息が吐き出された。

 「実はその――お宅の新型エンジンを採用する件、一旦白紙に戻してもらいたいんだ」

 「なんですって」

 あまりのことに息を吞み、次に反論しかけた佃を、「言いたいことはわかる」、と蔵田は片手で制した。「知っての通り、この四月に社長に就任した若山から、外部調達コストを根本的に見直せという大号令がかかってね。今さらの計画撤回で申し訳ない」

 「ちょっと待ってください」

 佃は慌てた。「新エンジンの価格はたしかに従来より高くなると思いますが、それを埋めて余りあるほどスペックは向上してるんです。コストパフォーマンスを考えれば、御社にとって高いものにはつきません。コストカットの対象とされるのは勘弁してもらえませんか」

 「そういうことは私も説明したよ。ところが、その考え方自体、相容れないと社長から言われてしまってね」

 蔵田は大げさにしかめ面を作ると、「いいですか」、と改まった口調で佃に上体を向ける。「ぶっちゃけていうと、若山新社長は、農機具のエンジンなど動けばいいという考えなんだよ」

 取り付く島もないひと言である。

 「若山さんは、もともと農機具畑の出身じゃないですか」

 色をなして佃は反論した。「それなのに動けばいいだなんて。そりゃ、あんまりですよ」

 「逆に農機具畑出身だからこそ、じゃないの」

 逆説を、蔵田は持ち出した。「エンジンの性能はたしかに重要だ。でも、多少のことで値段が高くなるぐらいなら、別にいまのままでいいとも言える。高速道路を百キロで走るクルマじゃない。トラクターが走るのは農道や田んぼなんですよ。時速はせいぜい二、三十キロ。そこでエンジンが何パーセントか効率化されようと、そんなことユーザーである農家にとって大した意味もないんだ」

 佃は、目の前が真っ白になるほどの衝撃を受けた。

 これはまさしく、日々技術を磨き、エンジンの効率化を目指してきた佃製作所の存在意義を真っ向から否定する話ではないか。

 「このエンジンを開発するために、ウチがどれだけ苦労してきたか、蔵田部長はおわかりのはずじゃないですか」

 込み上げてくる様々な思いを堪えつつ、佃は訴えた。

 「そらわかりますよ」

 蔵田は、ばつが悪そうに視線を逸らして椅子の背にもたれた。「だけど仕方が無いでしょう。それが新社長の方針なんだから。ああ、それでね――これ、今後の発注計画」

 テーブルの上に伏せて置かれていた書類を表向きにして滑らせて寄越す。今期後半、さらに来期に向けた計画だ。

 手に取った佃は、そこに並んだ数字に我が目を疑った。「どういうことですか」

 新エンジンを白紙にしただけではなく、既存製品の発注量まで大きく削られているではないか。

 「トラクターをはじめ、農機具のラインナップは一新される」

 寝耳に水の話である。「御社製のエンジンは一部の高級機向け限定にしたい。それに代わって、エンジンの性能より快適性を追求した汎用モデルを販売戦略のメインに据えることになった」

 いったいいつの間にそんな計画が進行していたのか。

 「困りますよ、これは」

 佃は、激しく動揺した。「受注前提の製造ラインを抱えているし、そのためのひとも雇ってるんです。事前に相談していただければ価格だってもっと検討したのに」

 「従来品の値段を下げられたってこと?」

 蔵田の目が底光りしたように見えた。

 「いったい、どのくらいのコストを考えていらっしゃるんです」

 問うた佃だが、蔵田から出てきた金額に思わず二の句が継げなくなった。予想外の低価格だったからだ。それは同時に、そんな低価格でもエンジンを納入する競合相手が存在することを意味する。

 「どこですか」

 喉を締め上げられるような息苦しさを感じながら、佃はきいた。「どこのメーカーに発注されるんです。ご迷惑でなければ教えていただけませんか。他言はしません」

 蔵田は迷っていたが、話したところで問題ないと判断したのだろう、

 「ダイダロスですよ」

 そう教えてくれた。

 「ダイダロス……」

 最近ちょくちょく耳にするようになったエンジンメーカーだ。一時は経営も青息吐息だったが経営改革によって復活を遂げたという話は聞いたことがある。ダイダロスの強みは調達力で、〝安さ一流、技術は二流〟が業界の評判だ。

 それにしても、これほどまでの低価格とは――佃は同社のコストに驚き、敗北感に唇を嚙んだ。技術がコストに負けたのだ。しかも、これは佃製作所にとって痛恨の〝敗北〟であった。

 

『下町ロケット  ゴースト』は7月20日発売です。

小学館文庫『下町ロケット  ガウディ計画』を7月6日に刊行しました。

最新情報は小学館「下町ロケット」特設サイトをご覧ください。

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