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2019.11.14
第2回『タスキメシ 箱根』:箱根駅伝100年! 胸熱スポーツ小説決定版第2弾発売!! 全6回連載
この記事は掲載から10か月が経過しています。記事中の発売日、イベント日程等には十分ご注意ください。
1、願う者
キャベツの胡麻和え ~仙波千早~
寒さが緩んでも、春の気配がジョギングコースにちらちらと見え始めても、一月の冷たい風が頬を撫でるときがある。
緑を残しつつ綺麗に整備された歩道を走りながら、仙波千早は一瞬だけ目を閉じた。脳裏に、三ヶ月ほど前に見た光景が蘇る。厚手のコートを着込んだ観客が小旗を振り、選手達に声援を送る。冷たい風に襷が揺れる。朝の日差しに選手の汗が光る。
オープン参加で記録が残らないとはいえ、チームメイトが関東学生連合チームの一員として箱根駅伝を走った。しかも、花の二区を、大学トップランナー達と一緒に。
自分は、そんな彼を送り出すことしかできなかった。
チームメイトをサポートしよう。何かを得てやろう。次に繋げてやろう。そんな気持ちの影で確かに感じた悔しさを振り切るように、千早は目を見開いた。目の前に広がるのは慣れ親しんだジョギングコースだ。大学に入学して丸三年。毎日のように見てきた道。アスファルトに覆われた走りやすい平らな道。温かな春のそよ風に、並木道の銀杏が鳴る。さらさらと緑色の葉を鳴らす。
その音に、誰かの足音が混ざった。リズミカルで軽やかな足取り。駅伝部の誰かだろうかと、後ろを振り返ったときだった。
「……んっ?」
見知らぬ男と目が合って、喉の奥から変な声が出た。
駅伝部の部員ではなかった。同じ時間帯にこの辺りをジョギングしている面子は、学生も社会人も関係なくなんとなく覚えているけれど、初めて見る顔だ。
若い男だった。学生にも社会人にも見えた。木漏れ日の反射が眩しいスカイブルーのウエアを着て、グレーのシューズを履いて、やや気まずそうに千早に向かって会釈する。そのまま、千早のことを追い抜いていった。
鮮やかな青色の背中から、目が離せなかった。自然と千早のペースも上がってしまう。
綺麗なフォームで走る人だ。運動不足解消のために走っているという感じも、新しい趣味を始めたくなってとりあえず走ってみた、という感じでもない。なんらかのトレーニングを受け、レースを経験してきた走りだ。
10mほどの間隔を保ったまま、しばらく走った。緩やかなカーブを曲がり、広々とした公園へと入る。大きな人工池を眺めながら、煉瓦の敷かれた道を進む。こつ、こつ、と煉瓦と靴底が擦れる音が小気味いい。
公園を出た辺りで、千早は「あれ?」と首を捻った。前を走るスカイブルーのウエアが向かう先が、自分と同じなんじゃないかという予感がしたから。
「え、嘘」
予感は当たった。その人は徐々に走るペースを緩め、「紫苑寮」という看板が掲げられたぼろぼろの門をくぐった。腕時計でわざわざタイムを確認して、「うわあ、全然駄目だ!」なんて笑い声を上げた。
「やっぱり、ここの部員だったんだ」
門扉に隠れて様子を窺っていた千早を、振り返る。
「このへん、気持ちよく走れていいね。緑も多くて、道も平らで広いし、綺麗だし、アップダウンのある公園もあるし。練習向きの場所がいっぱい」
汗ばんだ額を拭って、栗皮のような色合いの髪を二、三回指で梳いて、千早に歩み寄る。
「あの、すみません、どちら様ですか?」
恐る恐る、千早は聞いた。
「ここ、紫峰大学駅伝部の寮なんですけど……」
灰色に汚れて、ところどころひび割れた三階建ての建物を指さす。手入れされていない鬱蒼とした木々に覆われて廃墟のように見えるけれど、歴とした紫峰大学駅伝部の寮だ。駅伝部に所属し、箱根駅伝を目指して練習に励むランナーが、ここで暮らしている。駅伝部のキャプテンである千早は、入学してからずっとここで寝起きして、走ってきた。
箱根駅伝を走るために、走ってきた。
「ああ、俺、今日から入寮するんだ」
その人は笑って、千早に右手を差し出してきた。
「いや、でも……」
紫峰大学は国立大で、数少ないスポーツ推薦の枠を使って入部してくる選手は数名しかいない。彼らは今月の初めに入寮を済ませているし、一般入試で入学した学生の入部セレクションは入学式のあとだ。こんな中途半端な時期に入寮なんて、有り得ない。
言葉を選びながらそう伝えると、その人は肩を揺らして笑った。木漏れ日が揺らぐような、そんな笑い方をする人だった。
「俺、学部生じゃないよ。あと、選手でもない」
さらに困惑する千早に、彼は差し出したままの掌を大きく広げた。
「眞家早馬。四月から紫峰大学の院に入る。あと、駅伝部の栄養管理兼コーチアシスタントをすることになった」
院。栄養管理。コーチアシスタント。
想定外の言葉の連続に、千早は眞家早馬と名乗った彼をまじまじと見た。背丈は自分とたいして変わらない。歳もそんなに離れていないように見える。
なのにどうして、この人には自分が持っていないものがあると、そう思うのだろう。
「……どうも」
とりあえず、差し出された手に千早はおずおずと応えた。
【連載第3回に続く】