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2019.11.16

第4回『タスキメシ 箱根』:箱根駅伝100年! 胸熱スポーツ小説決定版第2弾発売!! 全6回連載

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第4回『タスキメシ  箱根』:箱根駅伝100年! 胸熱スポーツ小説決定版第2弾発売!! 全6回連載

 カワウソみたいな顔でいたずらっぽく笑って、館野はコーヒーを飲み干した。

 「千早、お前、今日は朝飯当番だろ? とりあえず手伝ってやって」

 ああ、そうだ、今日は当番だった。春休み中は授業に合わせて朝食を急ぐ必要もないし、なんとなく四年生はサボってもOK、二年と三年がメインでやるという空気ができてしまっていたから、すっかり忘れていた。

 「わ、わかりました……」

 館野の部屋を出て、恐る恐る食堂に足を踏み入れる。

 現在、この紫苑寮には二十八人の部員が生活している。全員が集まってもまだ余裕のある広い食堂には、これまた大きな調理場がある。厨房というには設備が貧相だけれど、部員の胃袋を満たすには充分な環境だ。

 昨年末までは、寮の管理人であり、栄養士の資格も持っていた海老名さんという初老の男性が食事を作ってくれていた。大学の授業がある日は朝夕の二食、休日は朝昼夕の三食。

 「管理人のお爺ちゃんが、お正月休みにスキー場で勢い余って足を骨折して、そのまま管理人を退職。代わりの管理人がいつになっても来ない、っていう状況なんだよね?」

 調理場の中央に立った早馬が、白衣のポケットに両手を突っ込んでこちらを見る。冷蔵庫の影から調理場を覗くようにして、千早は頷いた。

 「それで、仕方なく部員の持ち回りで自炊していたと」

 「左様でございます」

 「それでこうなったのかあ、凄いな」

 作業台の上に置いた木べらを見下ろし、早馬が肩を竦める。側には一週間の献立が書かれたプリントもある。

 「この献立を作ったのは誰?」

 「海老名さんが去年作ったやつです。あ、でも、それ通りには作ってないです。ていうか作れないです」

 料理なんてほとんどできない男子学生が三十人近く集まっているのだから、当然だ。器用そうな奴を各班に配置したところでまともに機能するはずなく、「とりあえず火が通ってるなら大丈夫だろ」と言って皿に無造作に盛って配膳する、ということを繰り返してきた。昨夜なんて、人参がほとんど生焼けの酢豚を食べる羽目になった。しかも味付けはどう考えても酢豚じゃなかった。

 そのことをかいつまんで説明すると、早馬は掌で目を覆った。

 「食中毒とか、出なくてよかったね……」

 大きな溜め息と共に木べらをゴミ箱に放り込み、「とりあえず今日の朝ご飯だ」と肩をぐるぐると回す。まるでこれからひとっ走りしようとしているみたいだけど、彼が向かった先は千早のいる冷蔵庫の前だった。

 業務用の冷蔵庫を両手でバンと開けた早馬は、ぐちゃぐちゃになった中身に一瞬だけ顔を顰め、「変な匂いがしないだけ良しとしよう!」と自分自身に言い聞かせるように笑った。

 「あの、眞家さんは、何者なんですか?」

 野菜室に入っていたありったけのキャベツを作業台へ運ぶ早馬を手伝いながら、千早は聞いた。

 「院生とかコーチアシスタントとか監督も言ってますけど、ただの院生に寮での栄養管理までは任せないと思うんですよ」

 それに、彼の年齢は二十五歳と館野は言っていた。ということは──。

 「あの、眞家さんって、前職は何なんですか?」

 言ってから、二浪して大学に入り、卒業後に院に進んだ可能性もあるなと思い至る。けれど、すぐに違うとわかった。ほうれん草の包装フィルムを剥がしながら、「前職ねえ」と彼が説明し出したから。

 「二月まで、神奈川にある病院で管理栄養士をしてた」

 「病院の管理栄養士ってことは、患者の食事作ったりしてたんですか」

 「そんな感じかな」

 どこかぼんやりとした口振りだった。積極的に話したい内容ではないのだろう。

 「どうして、大学院に行くことにしたんですか」

 「口と一緒に手も動かして」

 早馬が流し台を指さす。言われるがまま手を洗っていると、隣で早馬が大量の豆腐を賽の目に切っていた。一つ一つ、賞味期限をチェックしながら。いつの間にか大鍋がコンロにかけられている。お湯を沸かしているみたいだ。

 「大学院では、スポーツ栄養学について研究する予定」

 彼の持つ使い込まれた様子の包丁に、不思議と視線が寄ってしまう。食堂の備品の包丁ではない。束のところに職人の名前が入った、多分、結構いい包丁だ。

 手を洗うだけ洗ってそれを眺めていた千早の前に、あっという間に豆腐をカットした早馬がキャベツをどん、と置いた。

 「洗って、片っ端から一口サイズに千切って。包丁は使わなくていい」

 キャベツを抱えて流し台と作業台を何往復かして、早馬の命令通りひたすらキャベツを千切った。

 「スポーツ栄養学ってことは、要はあれですよね、アスリートの栄養管理をする……」

 「そうそう、その研究を大学院でしっかりやりたくてさ。思い切って仕事辞めたの」

 早馬が豆腐の次は長ネギを切る。ちょっと萎れ気味だったネギが、もの凄いスピードで小口切りにされていく。手慣れた様子に千早は目を丸くした。

 「でも、なんで駅伝部に……?」

 部活をやる院生は滅多にいない。ましてや、寮にまで入って競技に打ち込むなんて。

 「箱根」

 湯気が立ち上り始めた鍋に顆粒出汁を入れて、早馬が一言、そう呟く。

 箱根。それは、長距離走に励む男子にとって、特別な響きを持つ言葉だった。

【連載第5回に続く】

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