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2016.3.7

"どん底"のトヨタ自動車社長を支えたのは、開発中の事故でこの世を去ったテストドライバーだった。 『豊田章男が愛したテストドライバー』

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"どん底"のトヨタ自動車社長を支えたのは、開発中の事故でこの世を去ったテストドライバーだった。 『豊田章男が愛したテストドライバー』

「運転のことも分からない人に、クルマのことをああだこうだと言われたくない」。

 これはトヨタ自動車の豊田章男社長が、初対面のテストドライバー・成瀬弘氏に言われた言葉です。

 

 ふたりの出会いは約15年前。当時、アメリカ現地法人の副社長だった豊田氏が豊田市の本社に戻った際のこと。冒頭の言葉に呆然とする豊田氏に、成瀬氏は続けてこう言います。「月に一度でもいい、もしその気があるなら、俺が運転を教えるよ」。豊田氏にぴしゃりと言い放った成瀬氏は当時50代の後半、専門学校を卒業後に19歳でトヨタ自動車に入社した叩き上げのテストドライバーでした。以来、豊田氏は成瀬氏の弟子として、厳しいドライビングレッスンを受け、最終的には、世界一過酷なレース「ニュルブルクリンク24時間耐久レース」に出走します。一部のマスコミは、豊田氏のレース出走に関して、「道楽」と非難しましたが、その歩みを知ると、彼が社長になるための試練として、この過程が必要だったことが分かるでしょう。巨大企業にゆっくりと、成瀬氏の言葉はしみこみ、やがて豊田氏の心を動かします。

 

「いいクルマを作ろう」。豊田章男社長が会見のたびに繰り返す、この抽象的な概念。当初、社内外で戸惑いの声があがりました。しかし、彼がこの言葉を発するとき、その胸の中には成瀬氏から教え込まれたクルマへの思いがあります。豊田氏は、創業家という出自に加えて、慶應大学卒、米国でMBA取得、投資銀行勤務など、華々しい経歴を歩んできました。それ故に、彼のことを「色眼鏡」で見てしまう人間が多かったようです。そんな豊田氏が本当の父のように、兄のように、親友のように関係性を持てた数少ない人間が成瀬氏でした。豊田氏が社長就任して以降、レクサス暴走事故や東日本大震災など、数多の試練が襲いましたが、それらを乗り越えられたのも、「成瀬さんの存在が大きかった」と著者の取材に答えています。2011年6月23日、成瀬氏は、レクサスLFAの開発中に事故死。享年67。

 

 一介の開発者がなぜ豊田社長に「師」と仰がれるのか? そもそもテストドライバーの仕事とは? 約7万人の従業員を抱える巨大企業を率いる豊田章男の意外な一面とは? 『豊田章男が愛したテストドライバー』は、彼の経営観に大きな影響を及ぼした、あるテストドライバーの足跡を追ったビジネスノンフィクションであり、社長の座に就いた男が、長年にわたって築き上げた師弟愛の物語です。

 

「大宅賞作家・稲泉 連氏による初の『ビジネスノンフィクション』です。これまで戦争や災害などを取材対象としてきた稲泉氏は、今回、自動車業界のイロハを一から学びつつ、テストドライバー・成瀬弘氏の足跡を追い、さらには豊田章男氏に3度のインタビューを重ねました。完成には、なんと約5年の歳月を要しています」(担当編集)

 

『豊田章男が愛したテストドライバー』

著/稲泉 連 

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